
dimanche 22 janvier 2006【 御田美味しうございました 】
—— 虚貝

東京、雪。朝には昨晩食べるはずだった鮪の赤身を食す。味噌汁を作る予定であったが、無性に御田が食べたくなり、御田を煮る。
昔の人の日記には、こんなふうに毎日の天気と、その日食べたものを綴っていくという日記が、結構あったように見受けられる。中にはほとんどこれしか書いてないというものまであるらしい。
今のように、季節に関係なくいろんな食材が食べられるわけもなく、夏に食べた果物や人からの珍しい貰い物を、後々懐かしむという意味合いがあったのかもしれない。しかしそこには、もっとこう執着という匂いを感じなくもない。
今日は粥を少しだけ食べることができた、今日は粥の大半を残してしまった、今日は粥に塩昆布が入っていて少しだけ美味しく食べることができた、などと綴られていく日記を目にすると、食の向こうにある生への執着が透けてくる。
父上様母上様、三日とろゝ美味しうございました。干し柿、もちも美味しうございました。敏雄兄姉上様、おすし美味しうございました。克美兄姉上様、ブドウ酒、リンゴ美味しうございました。巌兄姉上様、しそめし、南ばんづけ美味しうございました。喜久蔵兄姉上様、ブドウ液、養命酒美味しうございました。……幸造兄姉上様……モンゴいか美味しうございました……
他人の日記やブログなどで、自分の食べたものを毎日記されているのを目にすると、なんとなく円谷幸吉が38年前に書いた上の遺書を想い出す。
今の人が自分の食べたものを記し続けることに、はたしてどんな意味を込めているのだろう。
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